公開
2017-05-19
執筆者
野嵜健秀 ( @nozakitakehide )

國語問題/歴史的かなづかひに關する走り書き的覺え書

我々は「歴史的かなづかひは合理的だ」と主張してゐる。この言葉が多大な誤解を招いてゐる事が判明してゐるので、一往、釋明をしておくべきかと思ふ。

歴史的かなづかひに限らず、言語に「合理性」がそもそも「ある」か何うか、は疑問である。我々が「木」を「木」と呼ぶ事に、必然的な理由はない。我々が「木」を「木」と呼んでゐるのは不合理である。なるほど、この點、我々にも異論はない。

が、從來「木」と呼び慣はしてきたものを、或日突然、「苦」と呼ぶ事にする、と定めたら何うか。

なるほど、「木」を「木」と呼ぶのは、言語の記號性から言つて、何ら意味はない事である。が、しかし、だからと言つて、それを「苦」でも「毛」でも、何でも別の言ひ方に突然變へるのは、ただ混亂を招くだけである。

ところが我々は、或日突然、「言ふ」を「言う」と書くやう命じられたのである。そしてその時、我々は、「發音通りに書くべきだ」と言はれたのだつた。

さて、「發音通りに書くべきだ」と云ふ理窟がついたら、我々は默つて「發音通りに書く」べきなのか。

これは甚だ疑問である。なぜなら我々は、書き言葉だらうが話し言葉だらうが、いきなりルールを變へられる事を好まないからである。だからこそ、「現代仮名遣い」が通用してゐる現代の日本で、いきなり歴史的かなづかひの文章を見れば、多くの人が面喰つてゐるのでないか。それは逆に見れば、從來歴史的かなづかひで書いてゐた人々は、或日突然「現代仮名遣い」で書けと言はれて面喰つたと云ふ事だ。

さて、理窟として「發音通りに書くべき」事を受容れたとしよう、それを「まあ、一理ある」と言つて、容認したとしよう、ところが「現代仮名遣い」では、助詞の「は」を、「發音通り」に「わ」と書くのでなく、歴史的かなづかひのまゝ「は」と書くべき事が決つてゐる。これは何なのだらう。

多くの人が、「私わ」と書く事に違和感を覺え、「私は」と書くのを自然だと感ずる。「現代仮名遣い」で助詞の「は」が「は」のまゝ殘されたのは、「現代仮名遣い」に日本人が強い違和感を抱かないやうにするためだつた。

が、助詞の「は」を歴史的かなづかひのまゝ「は」と書く事にしながら、「言ふ」の「ふ」を「發音通り」に「う」と改めたのは、やはり、理論的に一貫性を缺くと云ふものだらう。

「現代仮名遣い」に理論的な一貫性がない事は、「發音通り」と云ふ規則と、從來の慣習=歴史的かなづかひの規則をそのまゝ殘した規則とが、特に何の規則性もなく併存させられてゐる事でわかる。

となると、「現代仮名遣い」の非論理性は明かなのである。

歴史的かなづかひよりも「現代仮名遣い」の方が「新しい」規則である。「新しい」規則を、我々日本人は「作った」のである。その「新しく作った」規則が、なぜ理論的一貫性を缺いてゐて良いのか。理論的な一貫性を缺くと云ふのは、即ち、理論的に破綻してゐると云ふ事である。

歴史的かなづかひを「合理性を缺いている」として否定しておきながら、なぜ歴史的かなづかひを改良した「現代仮名遣い」が、依然として理論的な一貫性を缺き、合理性を缺いてゐて良いのか。我々は疑問をいだかざるを得ない。

「現代仮名遣い」が「作られたもの」として依然として合理性を缺きながら、強制され、通用させられてゐる事は、「現代仮名遣い」の存在意義そのものに疑ひをいだかせるに十分な理由である。

一方の歴史的かなづかひは、これは「作られたもの」ではない。脈々と祖先より受け繼がれてきた日本語の表記の規範である。平安時代以來、多くの誤用の事例は存在したが、それらはあくまでも誤用であつた。定家や契冲といつた先人の苦心の研究の結果、我々はあるべきかなづかひの姿の全貌に、いつたんは近附いた。それがあくまでも自然の日本語の姿そのまゝであつた事に注意を促したい。自然の日本語が「木」を「木」と言つた非合理性は、そもそも問題にならない。「言ふ」を「言ふ」と言ふ非合理性も、もちろん、記號としての言語の性質から言つて、問題にはならない筈である。それを「發音通りでない」と言つて「非合理」と極附けたのは、表音主義者である。が、「發音通りでない」事を「非合理」であると言ふべき根據は――少くとも言語學的には何もない。

歴史的かなづかひの中でも、字音假名遣と呼ばれる、漢字の音讀みの書き方については、もともと日本語の發音ではない支那語音によるものである以上、日本人が用ゐるには不便が多い。字音假名遣については、「發音通り」に書く、と云ふ妥協もあり得よう。しかし、日本語は漢字かな交りで書くのが原則である。漢字で書けば字音假名遣は隠れる。漢字かな交りの原則を守る限り、字音假名遣の「問題」は、あまり大きなものにはならない。

漢字の陰に隱れない・かなで書く語のかなづかひについて、將來は幾分、改良が行はれる事もあり得よう。しかしながら、言葉の改良と云ふものは、よほど注意して行はれねばなるまいと思はれる。「現代仮名遣い」における「改良」は、無思慮に過ぎた。單純に、漢字を廢止し、日本語を全面的に表音化する過程の一段階として、亂暴に制定されたのが「現代かなづかい」であつた、それをそつくりそのまゝ引繼いだのが、今、我々の目の前にある「現代仮名遣い」である。

「現代仮名遣い」はあまりにも粗雜な代物である。いつたんは歴史的かなづかひに戻して、そこから再出發する必要がある。「現代仮名遣い」に比べれば、歴史的かなづかひの方がはるかに、或は、まだしも、増しなものなのである。

我々、歴史的かなづかひ使用者は、歴史的かなづかひにただ固執するだけの立場であるわけではない。歴史的かなづかひの改良に協力する積りはある。が、「現代仮名遣い」を「歴史的かなづかひを改良したもの」と看做して・受容れられる者ではない。「現代仮名遣い」が「認められない」以上は、暫定的に、從來の歴史的かなづかひに據るのである。歴史的かなづかひしか、日本人には表現の方法がない。「なぜ歴史的かなづかひで書くのか」と問はれれば、我々はそのやうに答へるしかない。