ハイデッガーに『存在と時間』と云ふ本があつて、大變有名な訣だけれども、この二十世紀の哲學界に大きな衝撃を與へた本と、現代の宇宙物理學との間に如何なる接點があるだらうか。例へば、哲學界のハイデッガー研究者の人が、『存在と時間』を論ずる爲に、アインシュタイン以來の相對性理論をみつちりやつたと云ふ事例はあるだらうか。雜誌Newtonの本誌や別册で宇宙とか次元とかの話を纏めてゐるけれども、あんな薄つぺらいヴィジュアル的な本でさへ、平然と、この世はxyzに時間軸を加へて四次元と捉へられるとか、或は大統一理論を記述するのはこの世を何次元だかに看做せば可能とか、「無茶苦茶な話」を載せてゐて、暇潰しに讀むにしてはなかなか高度な内容だつたりする。が、さうした現代の宇宙物理學の最新の成果と、ハイデッガーとを、結び附ける研究は「ある」のか。そもそも、現代の科學の前に、ハイデッガーは可能か。
モンテーニュのエセーは實に日本人向けに出來てゐて、關根秀雄さんが作つたアブリッジド版は讀んでみると良いが、養徳社の養徳叢書に入つてゐた『人間隨想』は大變興味深いもので紹介しておきたい。關根さんは先づ「讀者よ。これなるは、それこそ眞正直な書物である」に始まる「エセー」それ自體に關するモンテーニュの言葉を集めてゐる。これらは大變謙遜な物で、殆ど自虐的と言つてよい物すらもあり、ウェブでブログや日記を書いてゐる人には、「このブログに就いて」の類を書く際、非常に役立つであらう文章許りだ。が、さう云ふ文章を一纏めにして提示されるとげつぷが出さうになるのも無理はないのであつて、しかし、この手の「釋明」の文章、ウェブには實に多いなと、改めて感心させられる。
一方、モンテーニュと言へばパスカルで、「パンセ」が有名だけれども、これはキリスト教關係の記述が古びてゐる事を指摘されてゐる。パスカルの有名な著作に「プロヴァンシアル」があつて、論爭の本だが、これは今、ウェブで頻りに行はれてゐる論爭をしてゐる人には大變參考になる本だ。パスカルは、科學者・數學者としては現在に至るまで全く評價は搖るがない。ところが、そのパスカルの本領はキリスト教に關する發言なのだ。「プロヴァンシアル」は大變優れた論爭の本で、敵を論破して散々にやつつけてゐる。ところが、最早キリスト教が、今となつては「古い」のである。
大學の教養課程で、樂勝科目と云ふ事でギリシア哲學を撰擇したら、擔當の教授が變つて、面倒な事になつた事があるけれども、あの時はギリシア時代の技術史をやつて呉れて、出隆先生の本なんかを買はされた。さて、ギリシア時代の技術が今となつては過去の遺物以上のものでない事は明かで、そんなものを學ぶ意義があるのか何うか、俺は疑問に思つたのだけれども、教授先生は(最う名前は忘れた)一向に「何故學ばねばならないか」を教へて呉れなかつた。
SFが現實の科學と技術に追越されて輝きを失つたやうに(やうにと言ふのも變だが)、哲學も存在意義を失つてゐる。と言ふか、明かに哲學の方が先に存在意義を喪失したのであり、その結果として專門分野に逃込んで、特殊な領域で生存を確保しようとしてますます死に體になりつゝあるのだが、我がYahoo!ブログの「カテゴリ」には幸か不幸か「哲學」の項目がある。が、今、哲學は可能か。
哲學は疑問を呈する事にある訣で、世の中の價値觀に混亂を齎すのが一つの使命である。俺はその點で哲學を信奉する人間であるが、今、混亂を起す事をそれ自體として惡と看做す勢力が存在し、その勢力は影響力を強めてゐる。繰返すが、哲學は果して現代に於て可能であるか。