『国語審議会迷走の60年』を立讀みして、結局資料として買つた。著者の安田は完全な傍觀者の立場をとり、問題意識がないかの如く振舞ひ、話を巧く纏めてゐる。だが、それが安田の書き方の鄙劣なところだ。
表記に關する歴史派
と現代派
の對立は、かつては「あつた」が、現在は實質的に消滅してゐる、と著者は言ふ。どちらの主張も国語への愛
に裏打ちされたもので、兩派の對立は單なるイデオロギーの相違に過ぎない、だから今や問題は表記の問題ではない――著者はさう云ふ風に判斷を下し、途中で表記の話を完全に止めてしまふ。あとは御定まりの敬語の問題
の話だ。そこで著者は、例によつて言葉の使ひ方は社会規範
であると言ふ。
安田の言ひ方は、大變に客觀的に見える。恐らく、多くの讀者が著者の偏向に氣附かない事だらう。だが、安田の立場は、次の文章に明瞭に顯はれてゐる。256ページ。
近年でも、敬語の体系を保つことに、さまざまな意味づけをしながら力が注がれている。それは敬語の「乱れ」を強調することで危機感をあおり、敬語を正すことで、分裂ぎみな社会を「伝統」に接続させ、その分裂をみえなくさせるためとしか思えない。個人主義や市民社会の破綻を強調し、「公共」や「伝統」を再評価する動きが活発な近年の状況と連動していることはまちがいない。
これを、單に「客觀的な観察」と見るべきか、それとも、公共
や伝統
の「再評価」を嫌な事・惡い事と看做す價値觀に基いた發言と見るべきか。
しかし、「終章」を見れば、安田の主張は明かである。安田の主張は、明かに、國字改革を推進せよ、と云ふものだ。安田は明かに、漢字を嫌ひ、國語の表音化に賛成である。だからこそ、本文で殊さら福田恆存を無視し、その價値を低めるやうな言ひ方をしてゐる訣である。嚴密な風を裝ひつゝ、非常に微妙な言ひ方をしてゐるが、安田は漢字を決して「好き」ではない。だからこそ、技術の進歩で漢字を機械的に扱へるやうになつた現實を指摘しながら「バリアフリー」の觀點から批判し、永瀬唯の言葉を引いて「漢字を使へる事で全ての人が幸福になれる訣ではないのだ」と強調するのである。
「あとがき」で安田はこの本の内容を「『現在派』と『歴史派』の對峙から一體化そして倫理化」及び「國字問題關係者の言語觀・國語觀・敬語觀の變遷」と要約した。そして、國字問題に關る論者について批評して空回り感が強い
と冷酷に極附けてゐる。安田はこうしたことに違和感をもってもらうことが本書の最終的な目標である。
と言ふ。
どうだらう、安田は國字問題が論じられる事それ自體に違和感を持たせようとしてゐるのである。これが何を意味するか。
「終章」を終へるに當つて、安田は言語政策について述べて、ことばは、政策的に管理されてはならない
と書く。なるほど、實に尤もである――が、それが今、なぜ主張されねばならないか。
安田は、現在の表記を「保守」せねばならぬと信じてゐるのである。茲から一歩でも後戻りしてはならぬと考へてゐるのである。一度意圖的に行はれた國字改革の結果を我々は相對化して、國語を本來あるべき姿に戻さねばならないが、その爲に我々は意圖的に國語を元に戻さうとしなければならない。だが、それを安田は妨害したいのである、安田は現状維持をはかりたいのである。
餘りにも綺麗に纏まつた本であるがゆゑに、安田の主張は「説得的」(嫌な言葉だ)に見える。けれども、安田のもつともらしい主張に耳を傾けてはならない。其處には極めて危險な落し穴がある。