時流に副つた事を專ら言ふ言論人がゐる一方で、時流に反した事を專ら言ふ言論人がゐる。彼等は一見、正反對の存在であるやうに見える。しかし、どちらも「機械的」に物を言つてゐる點では變りがない。
福田恆存と云ふ人は、どちらのタイプの言論人だつただらうか。「どちらでもない」と私は思ふ。福田氏は、時流とは關係なく、物を言つてゐたのだ。だからこそ偉いのだと思ふ。
「福田氏の時代には正字正かなを用ゐるのが時流に反撥する事だつた、しかし時代は變つた、今、正字正假名を使つても意味はないのだ」と主張する人がゐる。さう云ふ主張は如何なものだらうか、と私は思ふ。それは、「福田氏は單に時流に反撥してゐただけなんだよ」と言つてゐるやうなものではないか。そのやうな評價は、福田氏を貶めるだけである。
正字正かなは、福田氏にとつて「時流に反撥する爲の手段」等と云ふものではなかつた。それは「生き方」に直結したものだつた。時代とは關係なしに正しいものであつた。だから、時代が變つたからと言つて、正字正かなは抛棄されて良いものではない。福田氏の持つてゐた「正しさ」の觀念の正當な理解拔きに、福田氏を正しく評價する事は出來ない。
福田氏が「生き方」として選んだ正字正かなを、野嵜は意識して選んで使つてゐる。自分が叩かれるのを正字正かなの所爲にしてゐるのではない。勿論、さう言ふのは宣言に過ぎず、信用するに足らない、と人は言ふかも知れない。だが、野嵜が假に「免罪符」として正字正かなを用ゐてゐるとして、それに反撥して「俺は正字正かなを使はない」と言ふ態度を取るのであれば、それは「福田氏の考へ方への同意よりも、野嵜への反撥の方が強い」事を意味する。福田氏を輕んじてゐるのである。それだけは止めて貰ひたい。