公開
2017-03-05
執筆者
青田三太郎 ( @herrlich123 )
おことわり
2017年2月に執筆者が旅行した時の記録です。(https://twitter.com/herrlich123/status/829385988220784640)

旅行記/ナウハイムへ行く

 降雪は無く落ち着いてゐるが、乳白色の曇天が日常となつてゐる。溶け残りの雪を置いた野は様々の裸木を点景とし、輪郭の曖昧な山々が車窓を流れてゐる。人影の見えぬ寂寥たる集落や、主を失ひ曇つた窓硝子を鈍く光らせてゐる廃屋を過ぎ、停車駅が近づくにつれ景色に文明と生活が蘇る。

 インターネットオークションにて東独産カメラを物色してゐると、シンクロ・コンパーシャッター付きの「ヴェラI」の出品が目についた。価格は六十ユーロで、出品者の「最高の状態」との説明と併せ考へると、好条件だと思つた。しかし、説明を良く見ると直渡しに限つてゐる。出品者情報には、住所はマインツとあつた。電車で三時間強、二つの州境を跨ぐ小旅行である。時間はあるし、観光方々足を伸ばしてみようといふ気になり、購入の契約をした。

 数日後、出品者から連絡があり、双方に都合の良い日取りを確認した後、先方が知らせてきた住所を見ると、ナウハイムと書いてある。聞いた事が無いが、マインツに隣接するベッドタウンか何かかしらと思ひ調べると、大凡フランクフルト、マインツ、ダルムシュタットが形成する三角形の中央に位置する自治体で、抑々がマインツとは異なる州にある。出品者はただ最も近い大都市を挙げただけであつた。人口は一万人。嫌な予感がしたが、決まつた事は仕方が無いと観念し、鉄道券を買つて当日に備へた。

 当日の朝、地元の駅のカフェにて、六人掛けの円卓に席を占めエアフルト行の電車を待つ時間を潰してゐると、消防士がまづ四人程来た。後からまだ来る。五人の消防士と私が並んで掛け、あぶれた消防士は立つてゐる。極まりが悪いので直ぐに店を出た。「貴君等は私を非常事態に置いた」と言はうと思つたが、止した。少しすると電車が来た。

 エアフルトはその日も寒かつた。一体、ここに来るといつも底冷えのする寒さである。駅から出た事はないが、街も寒いのだらうと思ふ。

 マインツ行の急行に乗り駅を出ると、霧が篭めてゐた。平生は人類文明の期待を背負ひ堂々たる発電風車も、弱弱しく回つてゐる。

 難しい需要と供給のからくりで、一等券が数ユーロの上乗せで買へたので楽しみにしてゐたのが、多少静かなだけで二等と目立つた違ひが無く、少しがつかりしたが一等の価値は、「一等」たる事にありと思ひ直した。さう考へると、我が国において、いつからか一等が「グリーン車」と云ふ、分かりにくい名前になつてしまつたのは残念である。経済的階級による差別を、響きの上だけでも無くさうと云ふ思慮からだらうか。考へると、旅客飛行機の座席も一等のみに正当な名が冠せられ、他は「ビジネス」、「エコノミー」と、これもまたすつきりしない名が付いてゐる。

 チューリンゲン州境を越え、フルダに至ると、雲間からやや日が覗くやうになり、軌道の両側の風景も暖かな色合を帯びた。そろそろ煙草を我慢するのが辛くなる頃で、また早起きをした為少々眠くなつてきた。瞑目してよしなし事を考へたり、イヤホンで東独時代の歌謡曲を聴きなどしてフランクフルトを過ぎた。

 マインツに着くと、日はまだ高い。カメラの出品を見た当初の予定と異なり、三十分の乗り換へ時間に人で賑はふ駅の周囲を少し歩いてその日のマインツ観光は終はつた。カフェで残りの時間を潰し、ナウハイム行の電車に乗つた。

 ナウハイム駅で普通列車を降りると、既に日は傾いてゐた。電車の遅延を考慮して予定を立てたので時間には余裕がある。一服ふかしながら駅前の殺風景な様子を眺めて、厠を借りる為に駅の小店に入つた。内の様子は今までに見てきたさうした店とは少しく相違してゐた。やや明るさの足りない照明の下、四十格好の男が三人、着古した服でビール瓶片手にサッカー中継を観てゐる。もう一人、古いスロット台で遊んでゐる。私が入ると、軽く一瞥をくれたきりまたそれぞれの仕事に戻つた。何だか、西部劇で流れのガンマンが酒場に入る場面が想ひ起こされた。この場合、闖入者は寧ろインディアンだらうか。

 指定された住所まで三十分ほど歩いた。駅から続く通りを行くと、純然たる住宅街である。様式は新旧混在してをり、何の情趣も無い。人通りは疎だつた。時折、中東からの移民と見られる姿に会つたが、何故こんな所に来たのだらうと思つた。観るものも無し、早く用事を済ませるべく、歩を速めた。

 目的のアパートを見つけ、呼び鈴を押して来意を告げると、四十くらゐの無精髭を生やした男がカメラを持つて下りて来た。

「君がドクトルのカメラを買ふのか」
「Ja.(さうだ)」
「古いカメラの蒐集家か」
「Ja.」

 カメラを受け取り、少しく検分した。時間と交通費をかけてこのやうな田舎まで推参し、事ここに至つては余程の欠陥が無い限り断つても仕様が無いとの考へもあり、幾分形式的なものである。

 「Gut.(良からう)」

 六十ユーロを渡し、来た道を戻つた。

 電車を待つ間、やはり東独製のEXA Iで駅を撮影した。フィルムの巻き上げノブが固い。説明書を読むと、至る所でくどいやうに「ゲバルト(暴力)を用ふる勿れ」とあるのだが、少々ゲバルトを使用して巻き上げた。帰つて現像した写真をみると、何重にも露光された酷い有様で、結局ナウハイムを記録する写真はこの一枚だけである。

 マインツ駅構内のカフェで快速を待ちつつ、カメラを仔細に検分した。スローシャッター不調。レンズに傷、曇りあり。これは「最高の状態」からは程遠いが最早怒る気にならなかつた。定年後の余生を楽しむフラウ・ドクトルは高齢においてなほ金銭欲から解放されず、虚偽の申告をしてゐるか、または夫に先立たれ遺品の整理をしてゐるドクトルはカメラに暗く、外観のみから「最高」と判断したかのいづれかであらう。

 エアフルト駅構内はやはり寒かつた。皆、空調機から吹き出す風が当たるやう、思ひ思ひの場所を占め、寒さをしのいでゐた。(終)