国語改革は、漢字の使用を制限し、いづれ国語を完全に表音的な表記にするといふ意図で行はれたものであるが、その一部として、「同音の漢字による書きかえ」が実施された。同題の文書は、当用漢字表に採録されなかつた漢字を含む熟語について書き換へ方がまちまちになつたため、昭和31年に国語審議会が「報告」した「指針」である。
そもそも当用漢字表のやうなものをつくつて、漢字の使用に制限をすることは、語彙を制限するのと同様のことであり、批難すべきことである。漢語の使用に支障を来したのは、実施前から分かつてゐた筈の、当然の結果であり、同じ音の字で書き換へるといふのは、姑息な廻避法に過ぎない。姑息な廻避法を、国の名で世に弘め、奨励するに至つたことは、実に愚かで情けなく呆れた話と言へよう。
この「書きかえ」の結果起こつた悪いことは、単に、本来間違つてゐる表記を使ふやうに仕向けたことに留まらない。世の中の表記が悉く「書きかえ」の結果に追従した結果、どれが「書きかえ」の前から存在する表記で、どれが元々は存在しなかつた噓表記なのか、見分けをし難くなつた。
このうち、「書きかえ」後の表記が以前から存在した場合について、もう少し述べる。存在する複数の表記のうち、表内字だけで構成された表記だけが残された場合と言ひ換へることもできよう。前からあつた表記を使ふのなら問題などないではないか、と思はれる人もをられるであらう。しかし、そんなに単純な話と言ひ切るわけにはいかない。蒐集と収集のやうに、使ひ分けのあつたものを一緒くたにしてしまつた例もある。そこまでではなくとも、複数存在した表記を全く同じものと考へることが果たして正しいのか、他の表記を使はないことで支障は生じないのか、もう少し念入りに考へるべきであらう。また、従前はあまり使はれてゐなかつた表記が、表内字だけで構成されてゐるといふだけのことで、良く使はれるやうになつたといふ場合も考へられる。さういふ表現をすることにどれほどの妥当性があるのか、単に用例があれば良いといふ、単純なものではないと思ふ。
従前の書き方を分かりづらくした「書きかえ」は、間違ひの推奨であるに留まらず、正しい表記と間違つてゐる表記の峻別を困難にした、害毒といふべきものである。こんなことをされるよりは、全部を交ぜ書きにされてゐた方が、まだしも良かつた。ただ交ぜ書きにするだけなら、元の表記を調べる手間は少なく済んだ。「書きかえ」は誤つた情報を大掛かりに、且つ正規のものであることを装つて、垂れ流した。結果、国語表現の実例は誤つた情報で汚染され、混乱したものに成り果ててしまつた。
かくも迷惑な「同音の漢字による書きかえ」は、漢字を制限しつつ、しかし漢字で書きたいといふ、支離滅裂な動機によつて行はれた。漢字制限の無理は、「書きかえ」が実際に行はれたこと、それによつて惹き起こされた顚末を見れば、明々白々である。漢字表記の問題については、目につくからであらう、字体のことが取り上げられがちだが、字種を制限した揚句、漢語の語彙を混乱させたことの方が遥かに深刻な問題である。世の人には、ことの重大さを知つて欲しいと、切に願ふ。