この文書は、正かなづかひに興味はあるし一往読めもするけれど自分が書くのは……とお考への方に向けて「やってみなはれ」と唆すものです。しかし悪い奴に唆されたと言はれても責任はとれませんので悪しからず……。
実践の方法は十人十色ですが、まづは自分用のメモや日記で所々使ふとか、短い文章を書いてみるとか、間違ひを気にせず、自分の責任が及ぶ範囲で、心理的にやりやすい方法や範囲で始めれば良いでせう。誰でも最初は一年生です。ちっぽけでも毎日やるほど習得も早まるでせう。意義を感じなければ、止めてしまっても誰も文句は言ひません。
ちなみにこの文章を書いてゐる人間は、今でこそ自分のサイトやSNSで日夜ツラツラと正かなづかひで書いてゐますが、初めは実験的に自分のブログの記事タイトルや、フォロワーが一桁だった頃の短文SNSで、おっかなびっくりながら実践を始めました。まだ当時少なかった参考サイトを見たり辞書をひいたりしつつ、一度「現代仮名遣い」で打った文をチマチマと一字づつ正かなづかひや正字に直す、といふ時間のかかるやり方をしてゐた気がします。もはや遠い昔の話で記憶も曖昧ですが。
さて、詳しい書き分け方は当サイトのトップページにある「正かなづかひで書く」で掲げた資料を参考にして下さい。なほ国語辞典は必須ですので、既に持ってゐるならばすぐ使へるところに置きませう。もちろん電子辞書でも、無料の「goo国語辞書」(データは小学館のデジタル大辞泉)でも構ひません。二〇二五年現在は、字音仮名遣まで載ってゐて、書籍を買ふとスマホアプリ版(導入時以外は通信不要)も無償で使へる「旺文社国語辞典 第十二版」もおすすめです。
パソコンやスマホで入力する場合の準備は、当サイトの「スマホ・パソコンでの正かなづかひ入力について」を御覧ください。パソコンやスマホの場合、不慣れなうちは一旦「現代仮名遣い」で書いてから正かなづかひに直すといふ方法もやりやすいかと思ひます。
ところで「旧字旧かな」や「国語国字問題」と一括りに扱ふことも多い所為か、正かなづかひの実践には旧漢字(正字・正活字)の併用も必須と考へられがちですが、必ずしもその必要はありません。そもそも、かなづかひと漢字の使ひ方は全く別の問題です。また「当用漢字」や「常用漢字」は国語改革批判の観点から全ての漢字について一律して否定できるものではなく、一字一字について検証を要し、判断が分かれうるものです。正かなづかひで書くが旧漢字にこだはる意義は感じないとか、常用漢字を参考にはするが意味の全く異なる同音の漢字への書き換へには反対、など考へ方は様々です。詳しくは常用漢字を研究した各文献にあたってください。
送り仮名も同様に、内閣告示の「送り仮名の付け方」に従ふか否かも、各々の自由です。書字方向も、不必要に縦書きする必要もありませんし、右横書きをする必要もありません。捨て仮名も、単に字を小さくするか否かですので、敢へて廃止しなければならないものでもありません。
改めて申し上げますが、正かなづかひの実践は、復古や懐古、ある時代の何かの再現を必ずしも意味しません。もし何らかの再現をしたいのであれば、かなづかひに限らず様々な要点について検証を要するのは当然でせう。しかし、自分の言葉を綴る方法として正かなづかひを実践するにあたっては、「コレをするならアレもせねば。さもなくば不整合であり全て無意味」といふ発想は、非現実的な完璧主義に過ぎると言へませう。やれるところからやればよいのです。
正かなづかひを人の多いSNSで十数年使ってゐますと、正かなづかひを用ゐることについて、稀にですが知らないアカウントから難癖をつけられることがあります。興味深いことに異口同音に「中途半端な旧仮名遣だ」と言はれるので、自分に何か書き間違ひや不見識があるのかなとも思ふものですが、実はさう思はせるハッタリであり、からかひです。どこが中途半端なのかと訊いてみても、一理ある御指摘が返ってきた例がありません。迷子紐を批難する人が代はりに子供を守ってくれるわけではないやうに、相手の状況や考へ方を慮ることもなくただ言ひたいことを言ふだけ、といふ無責任な人が世の中には少なからずゐるものです。
そもそも見知らぬひとに難癖を付ける素行からして、その権威や肩書きにかかはらず最低限の礼節やSNS利用の心得を欠いた残念な方であることは明らかです。こちらの貴重な時間を費やして個々に反論や説明を試みるだけムダですので、誠意をもって丁重かつ迅速にブロックするなど、直接関はらないやうにするのがお互ひの為でせう。また私達が傾聴すべき国語の見識を持つ本物の専門家や識者は、まづ一連の国語国字問題の論点などはとうに熟知した研究者であって、さういふ方々にはSNSで見知らぬ人々をからかふ動機も暇も有り得ません。
一九四六年内閣告示の「現代かなづかい」が廃止され、一九八六年に「この仮名遣いは、科学、技術、芸術その他の各種専門分野や個々人の表記にまで及ぼそうとするものではない」「歴史的仮名遣いが、我が国の歴史や文化に深いかかわりをもつものとして、尊重されるべきことは言うまでもない」と前書きされた「現代仮名遣い」が告示されて久しい今、なほさら複数の大手出版社による最新の国語辞典に共通して明記された歴史的仮名遣ひに則って正しく書かうとする限り、その実践について何ら謗りを受ける理由はありません。ですから何かしら特別な理屈や反論を用意しておく必要もないのです。
正かなづかひは国語の歴史的な表記法であって、何ら特定の団体や宗教、思想といった狭い界隈への所属、団結の類ひを表明するやうな性質のものではありません。実際これまでも正かなづかひを実践されてゐる方々は、趣味も嗜好も思想も様々です。正かなづかひを用ゐてはゐるが、自分とはあまりに根本的な考へ方が違ふとか、行動が理解できないとか、さういふ方を見かけることも当然あるでせう。これは正かなづかひを用ゐることが、何ら特別ではないことを示してゐるともいへますが……。
しかしそれをもって「あの人たちと同類だと思はれたくないので、正かなづかひでは書きたくない」と仰る方も時折ですが見受けられます。ですが「日本人は…」と一括りする意見が往々にして大言壮語であり、論拠に乏しく威勢が良いだけの想像なのと同じく、どのやうな立場からも「正かなづかひを用ゐる人は…」とは何とも言ひやうがありません。
国語をどう書くかを考へると、ある意味で考へ方、生き方を試されてゐるやうなところがあります。各々の経歴や経験も色々でせうから「正しい仮名遣ひで書きたい」より「あの人たちと同類と思はれたくない」といふ判断を優先するからには、さう思ふなりの経緯があるのでせう。しかしそれは単に、正かなづかひに実は納得できてゐないことを隠しつつ誰かを批難してみせる、一時しのぎで他責思考の建て前に過ぎないのではありませんか、とは畏れ多くも指摘しておきたいと思ひます。時には「他人のことなんて気にしてもキリがない。自分がやりたいやうにやってみよう」といふ割り切りも必要ではないでせうか。
最後に強調しておきたいのは、正かなづかひは誰にも強制されるものではない、といふことです。なほさら「現代仮名遣い」を学んで不自由なく暮らしてゐるならば、さあ正かなづかひで書きませうと言はれても戸惑ふのは無理もないことです。
しかしかつて「現代かなづかい」は、統制的な教育や寡占的な出版といふ状況を利用して人々に書き方の転換を強制し、大きな禍根を残してゐます。一方で正かなづかひは、急進的に決定された「現代かなづかい」を問題視し、むしろ国語は長期的には変化を免れないといふ見方に立って、せめて言葉の構造や繋がりをかなづかひとして残さうとする考へ方です。その考へ方に賛同し、実践するか否かは各々の御判断に委ねるほかありません。そしてそれこそ本当の自由と民意といふものでせう。